何気ないサラリーマンの消費
毎日会社に向かって、必死で働き、時間が来ると会社を後にして家に帰り、鋭気を養ってまた会社に向かう。それが一般的な働き方です。どこに面白みがあるのかは人によりますし、何が楽しいのかも人によります。
決まったオフィスで決まった仕事をして、決まった給料をもらうのです。「人並みに働く」という「人並み」という言葉自体が意味をなくしてしまった現在では、どれくらい稼いだら裕福になるのか、どれくらい稼いだら安心できるのかなど分からないものなのです。人と比べて自分は稼ぎが悪い、人と比べて自分の暮らしは豊かではない。人と比べることがたくさんあると思うのですが、それは自然と自分よりも少し「上」の人と比べているだけであって、上には上がいますし、下には下がいます。
人は不思議と「今よりも上」を目指すもので、頑張って出世すれば、頑張って良い給料を貰えば、いい暮らしができると信じているのです。いつまでも今と同じではなく、いつかは自分が納得できるいい暮らしができると信じているのです。そうでなければ毎日死に物狂いで働くことなどできるわけがなく、「永遠に今と変わらない」と言われてしまったら、そう決められてしまったら、「頑張る」ことなどやめてしまうものなのです。「報われる」と思うから、頑張れるのであって、報われないことをずっと続けるなどということには価値を見いだせないのです。
そのような毎日を送る世の中のサラリーマンの懐事情というものも、なかなか厳しいものがあるようです。立派に稼いでいる人であっても、家計の財務大臣から支給される小遣いが少ないなどということも考えられるでしょう。そのような時にふと感じてしまうのは、「自分で稼いだお金であるのに、制限されてしまう」ということに対する虚しさかもしれません。共働きが主流になった現在でも、やはり夫の収入がメインであるということは多々あるものです。
そのような抑圧された資金繰りを余儀なくされているサラリーマンにとっては、ちょっとした贅沢も何かと理由をつけやすいものなのです。それは「自分へのご褒美」という理由です。自分に対して少し「甘い」出費を許してしまうというもので、それは同僚と呑みにいくことであったり、少し無駄遣いをしてみたり、そのような「自分」に対する甘さです。それは毎日働いている自分に対してのご褒美であり、たとえ妻に叱られてしまっても、「稼いでいるのだからいいんだ」と開き直るような、ちょっとした贅沢なのです。
サラリーマンの消費には本当に必要なものと、そのようにちょっとした「ムダ」が混在しているものなのです。そしてそれらをすべて小遣いでやりくりしているのだとすれば、そのちょっとした「ムダ」を我慢するだけで「へそくり」が作れてしまうということです。「どこからそのような資金を出すのか」と途方に暮れる前に、まずは自分の支出の中の「ムダ」を見つけるところから始めるといいのではないでしょうか。