一気に散財するカタルシス
お金は何においても「価値」そのものです。私たちが「高価」だとか、「良い」と思ったものは、すぐに「値段」に置き換えて考えるその「値段」そのものです。
資本主義の経済のなかでは、この「お金」こそがあらゆるものの指標です。国と国のそれぞれの通貨の相互価値は変動するもので、それは「為替」というのですが、その国の中では自分たちが利用している「通貨」は揺らぐものではなく、「原油が高騰」、「株が暴落」などとそれぞれの「対象」の「値段が変わった」と捉えるものです。つまり、私たちの「1円」はずっと「1円」のままで、世の中のモノの値段が変わっていると感じるということです。
そのような「価値」の象徴である「貨幣」は、私たちが誇れるものでありつつ、同時に「悩み」の原因になるものでもあります。特に、「お金がありすぎて困っている」という人はあまりいないでしょう。普通に生活していて、「お金に困らない人」、つまり「富裕層」は私たち全体の1パーセントに留まるのです。その1パーセントの人たちにとってみれば、「お金」などというものは取るに足らないもので、悩む必要もないものかもしれません。その1パーセントの人にとってみたら、いくらお金があったところで買うことができないものもあるということをわかっているのかもしれません。そのような人はその「貨幣」に替えられないものに対して悩んでいるのかもしれません。
ほとんどの人たちにとってみれば、「お金」は悩みのタネであり、同時に「希望」でもあるものです。お金を稼ぐために毎日働いている、お金を稼ぐために毎日努力している、その先に「貨幣」があるので、自分の頑張りを「金額で換算することができる」のです。
そのような「価値」そのものの「お金」を「使う」ということは、私たちにとって一種の「快感」を得られる手段でもあります。「カタルシス」といってもいいでしょう。「支払う」、「何かを買う」ということ自体が、私たちにとってはストレスの発散になるのです。女性で特に多いのですが、「ショッピングがストレス発散だ」という人は「お金を使って欲しいものを手に入れる」ということ自体でストレスを解消しているのです。それは「お金」がそうそう簡単に手に入るものではないからで、そのような大切なものを一気に使うということに対して「爽快感」を感じるということでしょう。
コツコツ貯めるはずのものを一気に使うというカタルシス。そのようなものがたしかに世の中には存在するのです。そのカタルシスを得るために、貯めることと散財することを繰り返す人もいるほどです。「蓄財」する期間と、ある程度溜まった段階でそれを一気に散財するタイミングを繰り返し、メリハリをつけて生きている人もいるのです。それはそれで、ひとつの「生き方」としてはまったく問題ないものでもあります。ただ、お金は貯まらないことに変わりはありません。蓄財に向いている生活とはいえないでしょう。